加賀百万石の豪華絢爛な色絵時期である「九谷焼」。約370年の歴史のなかで、五彩手や青手など多彩な洋式を生み出し進化を続けてきました。本特集では、伝統技術を受け継ぎながら、現代の感性で未来を切り拓く3人の作家に注目し、変わり続けることで受け継がれてきた、九谷焼の新たな魅力に迫ります。

自然に学び、想いを受け継ぐ── 四代 徳田八十吉が見つめる伝統のかたち
九谷焼を代表する名跡のひとつ、「徳田八十吉」。その四代目を継ぐ徳田八十吉は、人間国宝である父から受け継いだ技を礎にしながら、自らの感性で新たな色彩の世界を切り開いてきた。襲名、震災、経営危機――幾多の困難や病を乗り越えた先に見つめるのは、過去を守るだけではない伝統のあり方。九谷焼に宿る自由な精神と、未来へつなぐ思いについて話を聞いた。
徳田さんは九谷焼の名門に生まれ育ちました。陶房は、どのような場所として記憶に残っていますか。
子供の頃、仕事場には入れてもらえませんでした。陶房は神聖な場所ですし、窯や道具もあり危険ですから。私は長女で、本家に生まれた初めての子供だったので、とても大事に育てられました。その分、行動範囲も限られていて、庭以外の場所にはほとんど行かせてもらえなかったんです。だから子供の頃は、一人で遊ぶ時間がたくさんありました。夏は住み込みの職人さんに「セミを捕って」とお願いしたり、秋になれば栗を拾って茹でたり。植物や虫たちが友達のような存在でしたね。
家業を意識するようになったのは、いつ頃だったのでしょうか。
25歳頃だったと思います。それまでは、家業に対して特別な関心はありませんでした。うちはやっぱり厳しい家でしたからね。若い頃は、もっと華やかな世界に憧れていて、「ここではないどこかへ行きたい」という気持ちのほうが強かったです。高校卒業後アメリカに留学したのもそうですし、その後は東京の短大に進学しました。でも、いろいろな場所で暮らしてみて思ったのは、自由というのは場所が与えてくれるものではないということでした。結局、どこにいても、自分自身と向き合わなければいけない。自由というのは、自分の心のなかにあるものではないか、と感じるようになりました。
20代半ばに訪れたアメリカの美術館で、中国・景徳鎮の色絵磁器に出会ったことが、作陶に向かうきっかけになったそうですね。
20代半ば、NHK金沢放送局でニュースキャスターをした後に、ニューヨークへ行き、メトロポリタン美術館を訪れたんです。ニューヨークにはもちろん歴史も文化もあります。でも私には、どこか乾いた印象がありました。自分のルーツにつながるような郷愁をあまり感じられなかったんです。そんななかで、景徳鎮の色絵磁器を見た瞬間、「ああ、懐かしい」と思いました。九谷焼のルーツは中国磁器にあります。生まれた時から何気なく見てきた色彩や質感が、そこにあったんですね。その体験がきっかけで、石川県立九谷焼技術研修所の夏季教室に参加し、染付を学び始めました。最初は「少しやってみようかな」くらいの軽い気持ちだったんです。でも、やり始めると面白くて、一生懸命になってしまった。気づけば陶芸の世界に深く入り込んでいました。当時はまだ、家業を継ごうという意識はありませんでした。ただ、自分のルーツに導かれるように、自然と九谷焼に近づいていったような気がします。
家業を継ぐ決意は、どのように固まっていったのでしょうか。
1990年に石川県立九谷焼技術研修所を卒業し、翌年には工房が完成して、本格的に制作を始めました。大きな転機になったのは2007年です。ロンドンで開催された「日本のわざの美」展に、父・三代 徳田八十吉の作品が出品され、私も同行しました。ほかにも日本を代表する工芸作家の先生方が数多く参加されていて、とても緊張した旅だったことを覚えています。ところが、その年の秋に父が脳梗塞で倒れました。入退院を繰り返すなかで、父は初代から受け継がれてきた釉薬の調合について教えてくれるようになったんです。その時は、「これが最後の機会になるかもしれない」と思いながら必死に聞いていました。2008年に、《更紗文鉢》で第55回日本伝統工芸展に初入選しました。翌年の2009年には、「八十吉の色」を使った《遙》で第56回日本伝統工芸展に再び入選。病床の父に報告すると「おめでとう、おめでとう、すごいね」と、繰り返し喜んでくれました。最初で最後の褒め言葉を残して、父は、その後すぐ息を引き取りました。でも、その時点でも私は、家業を継ごうとは思っていなかったんです。三回忌が終われば、このまま自然に話もなくなるのではないか。そんなふうに考えていました。ところが、ある日、お世話になっていた華道の先生から電話をいただいたんです。「20年も陶芸を続けてきたのだから、継いだらどうですか」と背中を押してくださって。その言葉を聞いた時に、「それなら襲名しようかな」と思いました。
2010年に四代 徳田八十吉を襲名されました。
襲名した日に、戸籍名を順子から八十吉に改めました。それから神社でお祓いを受けて、錦窯展示館へ向かったんです。すると、たくさんの新聞記者の方々がいらしていて、驚きました。その時になって初めて、「襲名というのはこんなに大きなことなんだ」と実感したんです。それまでは、自分なりに陶芸を続けてきた作家の一人という感覚でした。でも襲名した瞬間から、徳田家の歴史や工房そのものを背負う立場になった。正直、重い名前だなと思いましたね。
襲名後は、作家としてだけでなく、経営者としての責任も背負うことになったんですね。
そうですね。さらに、2011年には東日本大震災が起きました。社会全体が不安に包まれるなかで、父が残した借入金や税金などを含め、3億円以上の負債を抱えていることが発覚しました。ちょうど、日本伝統工芸展の正会員を目指していた大切な時期でもあり、4回目の入選を果たせば正会員になれるという節目を迎えていました。しかし、その結果は落選。何もかもうまくいかないように思えて、一度は職人たちに「もう辞めようと思う」と話したんです。でも、みんな悲しそうな顔をするんですよ。その時に、父が私に託したのは、工房や建物ではなく、ここで働く職人たちと、その家族だったんだと気付いたんです。土地や建物を守ることはできても、人の暮らしや人生を守ることは簡単ではありません。父が「頼むね」と言った意味が、本当に分かったのはその時だったように思います。未来が見えない真っ暗な藪のなかを、手探りで歩くような日々でした。でも、その時間があったからこそ、自分なりの覚悟も生まれましたし、四代としての作風も少しずつ形になってきたのだと思います。今は、もう死ぬまでこの道を歩いていくのだろうなと思っています。一日一日を大切にしながら、できる限りのことをやっていきたいですね。
徳田家の作品は、やはり「色」が印象的です。ご自身が特に大切にしている色はありますか。
私は、父が使わなかった赤を意識的に使っています。赤は、血液の色であり、女性にとっては月経の色でもあり、生きる力と深く結びついている色だと思っています。実際、赤い服や口紅を身につけると元気が出ることがありますよね。私自身も、赤にはそういうエネルギーが宿っていると感じています。ただ、作品を彩る色は、赤だけではありません。工房の前には青空が広がり、山には緑が生い茂り、秋になると黄金色の稲穂が風に揺れます。そうした自然の色彩から毎日力をもらっています。その力が自分の手を通して作品へと移り、作品を手にした方の心に何かを届けられたら嬉しいですね。「生きる力を与える」なんて言うと大げさかもしれませんが、少しでも前向きな気持ちを受け取っていただけたら、私が作品を作る意味があるのではないかと思っています。
長年、色と向き合ってきたことで、見える世界も変わりましたか。
父から色を教わっていた頃、青い作品をずらりと並べられて、「お前には全部同じ色に見えるだろう」と言われたことがありました。その時の私は、本当に全部同じに見えたんです。でも今は、「これは何番の釉薬だな」と分かるようになりました。色というのは、知識だけでなく、時間をかけて体で覚えていくものなのだと思います。毎日見続けていると、少しずつ見える色が増えていくんですね。
ご自身にとって、特に印象深い作品を挙げるとしたら何でしょうか。
2011年に制作した《瑞穂》ですね。先ほどもお話しした通り、当時は本当に苦しい時期でした。東日本大震災が起こり、父が残した負債の問題も明らかになった。さらに日本伝統工芸展でも落選してしまいました。経営者としても作家としても自信を失い、「もう辞めようか」と考えていた頃でした。そんなある日の夜、スポーツクラブから帰宅した時のことです。雨が降っていて、ふと田んぼに目を向けると、稲穂が雨に濡れて光っていたんです。その光景が本当に美しくて。私は落ち込んでいましたが、目の前の稲は黙々と実を結んでいる。震災で苦しんでいる東北の人たちのことを思えば、自分もまだ頑張らなければいけないんじゃないか。そんな気持ちが自然と湧いてきました。「たとえ苦しいことがあっても、この一粒の米のように生きていこう」と思えたんです。その時に見た稲穂の輝きを形にしたいと思い、深い緑から黄金色へと移り変わる色彩を壺に表現しました。
徳田さんにとって、人生の転機と重なる特別な作品なんですね。石川の風土が、作品に与える影響はあるでしょうか。
全国を見渡しても、石川ほど豊かな土地はなかなかないと思っています。雪が降り、春には新緑が芽吹き、川が流れ、田んぼが広がる。魚やナマズ、カメ、鴨、鯉などさまざまな生き物が暮らしていて、生態系も豊かです。長くこの土地で暮らしていますが、年齢を重ねるほど、その恵まれた環境の価値を実感するようになりました。工房の裏手には郷谷川が流れています。四季折々に表情を変える川や田園風景は、私にとって大切な創作の源です。私は子供の頃から、中国・唐の時代の文人たちに憧れていました。漢詩を書く人たちが川のほとりに住み、自然と向き合いながら作品を生み出していたという話に強く惹かれていたんです。だから工房を建てる時も、「川があって、山が見える場所がいい」とこだわりました。父が田んぼを三枚買ってくれて、その後さらに土地を増やして、今では広い敷地になっています。維持するのは大変ですが、私は草刈りが大好きなんですよ。梅雨になると草が勢いよく伸びて、あっという間にジャングルみたいになってしまいますから、夢中になって草を刈ります。そうやって自然のなかで過ごしていると、季節の移ろいや土地の息づかいを体で感じることができます。
近年は、能登半島地震も経験されました。
震災を経験したことで、改めて身近な自然の存在に目が向きました。地震の後、工房の周りに広がる緑を見て、「やっぱりこの風景は大切だな」と強く感じたんです。それからは、緑や紺青を基調にした作品も作るようになりました。今年、石川の伝統工芸展に入選したのも、緑や紺青を基調にした作品です。形は女性のドレスやデコルテを思わせる柔らかなフォルムですが、その中央には赤い一本の川が流れています。私のなかでは、その川は三途の川でもあります。生と死、過去と未来、別れと再生。震災を経験したからこそ見えてきた景色や感情が、作品のなかに少しずつ表れるようになった気がします。
徳田さんは、伝統をどのようなものとして捉えていますか。
伝統というのは、流れる川と同じだと思っています。川には絶えず水が流れていますが、その水は決して同じではありません。見た目は変わらなくても、中身は常に入れ替わっている。伝統もそれと同じで、本質は受け継がれながらも、時代とともに変化し続けるものだと思います。伝統工芸展の趣意にも、そうした考え方が記されています。変わらないものを守りながら、同時に変わり続ける。それが伝統の姿ではないでしょうか。例えば、日本人の装いもそうですよね。かつては着物が当たり前でしたし、さらに時代を遡れば、宮中では十二単が着られていました。でも今、私たちは洋服を着ています。文明や暮らし方は時代とともに変わります。しかし、その根底にある文化や精神は受け継がれていく。工芸も同じだと思います。研修所で学んでいた頃、「アメリカでは仏壇をキャビネットのように使う人もいる」という話を聞いたことがあります。用途や価値観は国や時代によって変わるものです。九谷焼もまた、古九谷から吉田屋、若杉、庄三へと受け継がれながら発展してきました。そして現代では、多くの作家たちがそれぞれの表現を追求しています。
四代 徳田八十吉として、これからどのような未来を描いていますか。
私の周りには、私が子供だった頃から工房で働いている職人もいます。そうした職人たちは、どちらかというと昔ながらのものづくりを大切にしてきた世代です。一方で私は、新しいことに興味を持つタイプなんですね。LINEやYouTubeなどを活用した情報発信にも関心があります。変化する時代のなかで生き残るためには、新しいことにも挑戦し続けなければならないと思っています。私はよく、「職人は土で、私は風」と言うんです。土だけでもだめだし、風だけでもだめ。風土という言葉があるように、その両方があって初めて新しいものが生まれる。私は外の世界を見て、新しい情報を取り入れながら、職人たちが培ってきた技術や経験と結びつけていく役割なのだと思っています。
現代社会において、工芸にはどのような役割があると思いますか。
工芸には、人間が忘れかけている感覚を呼び起こす力があると思います。今はAIやデジタル技術が急速に発展しています。便利になった一方で、人の手で何かを生み出すことの価値を改めて見つめ直す時代にもなっているのではないでしょうか。工芸は、とても原始的な営みです。土に触れ、火を扱い、時間をかけて形を生み出していく。その過程には、人間らしさが凝縮されています。だからこそ、工芸を知ることは、単に物を鑑賞することではなく、その国の文化や歴史、人々の価値観を知ることにもつながると思うんです。
時代とともに、人々の暮らしも大きく変わってきていますね。
そうですね。かつては大家族が当たり前で、法事や結婚式も家で行われていました。でも、今は核家族化が進み、器に求められる役割も変化しています。だからこそ、工芸のあり方も柔軟に考えていく必要があると思うんです。例えば、お茶会を開きたいけれど、高価な道具をすべて所有するのは難しいという方もいらっしゃいます。それなら、私たちが持っている作品を貸し出すという方法があってもいいかもしれない。工芸は、人が集まり、時間を共有し、豊かな体験を生み出すためのものでもある。だから私は、伝統を守りながらも、新しい時代に合った工芸の可能性を探っていきたいと思っています。そして職人たちにもいつも伝えています。焼き物は単なる「物」ではない、と。そこには作り手の思いや時間、技術、そして魂が込められている。その積み重ねこそが、徳田八十吉という名前の価値であり、ブランドなのだと思います。
掲載作品についてお教えください。
「瑞穂」彩釉壺 2011年の東日本大震災後、私は父が遺した負債や工芸展での落選など、さまざまな困難に直面していました。将来への不安を抱えるなかで、陶房の前で雨に濡れながらたわわに実る稲穂の姿が目に留まりました。「一粒万倍」。一粒の米が豊かな実りへと育つ生命の力強さに心を打たれ、「自分ももう一度、ゼロから、いやマイナスからでも歩み出そう」と決意したことが、本作の出発点となっています。四代 徳田八十吉の代表作の一つです。

PROFILE
九谷焼作家 四代 徳田八十吉 Yasokichi Tokuda
1961年、石川県小松市生まれ。人間国宝である、三代 徳田八十吉の長女として生まれる。NHK金沢放送局のキャスターなどを経て作陶の道へ進み、2010年に女性初の「四代 徳田八十吉」を襲名。代々受け継がれてきた九谷焼の秘伝「彩釉」技法を継承しながらも、女性ならではのしなやかな感性を注ぎ込んだ、淡く優美な色彩のグラデーションを展開。伝統の枠を超えたモダンで美しい作品世界を開拓している。日本伝統工芸展など国内での受賞・入選多数。一線で活躍する現代九谷焼界のトップランナーの一人。
Edit:RYOTA KOUJIRO Photography:SHUN SASAKI(SIGNO)[MAKO NAKAYA / KAZUYOSHI KITAMURA] Text:SUI TOYA
