BEYOND WORDS 和傘に映る時の重なり

COLUMN

和傘は、時代ごとに表情を変えながら人々の生活に寄り添ってきた、日本ならではの道具です。その佇まいは、開くたびに空間の表情を変え、静かに存在感を放ちます。本企画では、岐阜、京都、岡山で和傘と向き合う3人の職人に注目し、彼らが紡ぐ繊細な手仕事の美学と、伝統を現代に息づかせる挑戦の軌跡をたどります。

東京・大手町仲通り「和ルミネーション」 和傘ウォールで様々な和傘たちを組み上げてリフレクション用の鏡を敷き詰 めてます。

失われゆく文化をつなぐ ── 小林旅人が描く和傘の未来図

1本の和傘を仕上げるまでに、数カ月をかけて向き合う職人・小林旅人。ギター製作や木工で培った「構造を見る力」を生かし、途絶えかけた技法の調査や再現に取り組んできた。友人の急逝を機に受け継いだ和傘づくりは、舞踊傘の製作や地域に残る大傘の復元へと広がり、今では和傘文化の未来を支える仕事へと発展している。伝統を次の世代へと受け渡すために、彼は今何を見つめ、どんなものづくりをしているのか。その考えに耳を傾けたい。

INTERVIEW

和傘職人になる前は、どのようなお仕事をされていたのでしょうか?

もともとはバンド活動をしていました。社会人になってからは、エレキギターの製作や修理、木工、テーマパークや水族館の設計など、幅広いものづくりに携わってきました。

エレキギター製作の道に進まれたきっかけは何だったのですか?

中学生の頃、お金がなくてギターを買うことができなかったんです。そんな時、QUEENのギタリスト、ブライアン・メイが「俺のギターは親父と暖炉をぶち壊して作ったぜ」と話している記事を読み、「自分でも作れるんだ!」と目から鱗が落ちました。そこで、買えないなら作ればいい、作る人になろう、と思ったんです。高校卒業後はエレキギター製作の専門学校に進み、そのままメーカーに就職して、エレキギターを色々製作しました。

そうしたものづくりの経験が、現在の和傘づくりにも生きているのでしょうか。

強く実感しています。僕は工業高校出身ということもあり、構造を考えるのが好きなんです。車も自分でエンジンを分解していました。構造を逆算して考える癖が身についていたので、和傘づくりもその要領で覚えていきましたね。

和傘の世界へ入られたのは、どのような経緯だったのでしょうか。

鳥取の和傘職人の坂田弘と、偶然知り合ったことがきっかけです。僕はミニクーパーなど古い欧州車が好きで、車が趣味の友人が鳥取で経営している喫茶店によく遊びに行っていました。ある時、友人の紹介で、カウンターで隣り合わせた坂田と話すことに。僕が「岡山の津山というところから来ている小林です」と挨拶した瞬間、坂田が「津山か!」って声を上げたんです。

「津山」という地名に、特別な思い入れがあったのでしょうか。

坂田の作っていた鳥取の淀江傘は、津山の職人が技術を伝えたといわれています。つまり、淀江傘のルーツは津山にあるとされているんです。そういった背景もあり、初対面にもかかわらず、坂田が「津山の和傘は今どうなっているんだ」と息を荒げて語り始めました。

その頃、和傘についてはご存知だったのですか?

まったく知りませんでしたね。坂田の厚苦しさに巻き込まれて、面白いなと思ったのが運の尽きというか(笑)。坂田と出会うことがなかったら、和傘に関係することさえもなかったと思います。

大きな出会いだったんですね。坂田さんから和傘の作り方を教わったのでしょうか。

坂田から直接教わったことはほとんどありません。遊びに行くと「ちょうどいいところに来た、手伝ってくれ」と言われ、糸つなぎなどをやらされましたが、実際に教えてくれたのは坂田の弟子の方々でした。

なるほど。その頃、お弟子さんは何名いらっしゃったのでしょうか?

そもそも、坂田は弟子を取らないと言っていたんです。ところが「弟子を取らなければならない」と突然言い出して、弟子を2人取ることになりました。何か新しいことを始めようとしていたのかもしれませんが、弟子が入って数カ月後、坂田が脳出血で急逝してしまったんです。葬儀の後、残された弟子たちが途方に暮れて、僕のところへ「どうすればいいですか」と連絡してきました。戸惑いましたが、友人が残した弟子として放っておけず、週末だけ鳥取に通い、和傘づくりを手伝う生活が始まりました。

その状況のなかで、ご自身が後を継ぐ決意をされたのはどのような理由からですか?

弟子たちに「このままでは立ち行かない」と言われ、思わず「それなら、自分がやろうか」と返してしまったんです。「口は災いのもと」と言いますが、それが和傘の世界に入るきっかけになりました。

当時はどのようなお仕事をされていたのでしょうか?

大阪でNC旋盤の仕事をしていました。津山で働いた後、サラリーマンは向いていないと感じて津山の会社を退職し、大阪の職業訓練校で木工を学んだんです。当時の僕は「何のために生きているんだろう」と考えることが多く、大阪で就職した会社の仕事帰りにパチンコに寄って一喜一憂する日々に違和感を覚えていました。このままではいけない、何かを変えなければと思っていた時期でもあり、今振り返れば、良いタイミングだったのかもしれません。

坂田さんの情熱も、決断に影響しましたか?

そうですね。坂田の「ああしたい、こうしたい」という熱い理想を聞いていたので、それが突然途絶えるのは惜しいと感じました。弟子たちが自立できるよう支えようと思っただけでしたが、ここまで長く続けることになるとは思いませんでしたね。

その時、おいくつだったのですか?

40歳でした。淀江傘伝承館に入って骨の製作を主に担当し、その後、坂田の弟子の工房を手伝って、のちに岡山・倉敷で独立しました。

和傘づくりについてお伺いします。和傘1本を完成させるまでに、どれくらいの時間がかかるのでしょうか?

僕は、1本の傘に数カ月かけます。質の良い和傘を製作するためには、竹が傘の形を覚えたり、和紙が閉じた形を覚えたりする時間が必要です。特に、紙は元に戻ろうとする性質があるため、十分に時間をかけないと、傘が勝手に開いてしまいます。無理に形を作るのではなく、素材が適正な形を覚えるまで待つので、閉じた状態で1カ月放っておくこともありますね。骨材も購入してすぐには使わず、半年ほど置きます。夏を越させ、虫が付かないか確認するためです。

素材選びで重視されている点は何ですか?

和紙は強度や質感を重視し、紙漉き職人の方に直接聞きながら選びます。油は複数の乾性油を混ぜ、特性や乾燥時の気温などを方程式のように組み立てながら調合します。また、地元の素材を使うことを大切にしています。和紙は横野和紙、骨上の着色は岡山特産のベンガラと柿渋の混合、頭の紐は倉敷の真田紐を使用していますね。

伝統的な技法を守りつつ、現代的な工夫や改良を加えている部分はありますか?

残念ながら、昔の材料が手に入らないことが多いので、特 性を踏まえて代用品を探します。また、生活様式の変化に合わせて、傘の大きさや持ち運びやすさ、傘袋の形なども工夫しています。僕の和傘は淀江傘を基本としていますが、使いやすく、理にかなっていれば、製法や素材はアレンジしていいと考えています。そのため「淀江傘屋」ではなく「和傘屋」と名乗っています。

デザイン面のこだわりはありますか?

内側の糸かがりは、できる限り五色の糸を使うようにしています。それ以外に特別なこだわりはありません。僕はデザイン力が高いわけではないので、基本はシンプルに。染めの具合で表情を変える程度です。人気が高いのは「墨流し」の和傘ですね。江戸時代には“渋蛇の目”といって、ベンガラと柿渋を混ぜて蛇の目傘を染める技法がありました。僕はその技法をアレンジし、岡山のベンガラを柿渋と合わせ、マーブル模様のように仕上げています。多くの職人は墨で染めますが、ベンガラと柿渋を混ぜると濃度差が出て、黒の周囲にほんのり茶色い縁取りが生まれるんです。柿渋だけが紙に染み込むことで、独特のコントラストが出るんですよ。

とても美しいですね! 五色糸には、特別な意味があるのでしょうか?

五色は、赤・青・黄・白・黒からなる陰陽五行の色です。それぞれを用いることで結界を張り、災いを寄せ付けないという考え方があります。和傘はもともと魔除けの道具として作られ、陰陽の思想も深く取り入れられてきました。傘の下に立つ人に災いが降りかからないように、幸せへ導けるようにという願いが込められているんです。蛇の目傘の二重円にも、魔除けの意味合いがあります。外側の蛇の目が災いを睨み返し、内側では五色の糸が結界を張る。和傘は、陰陽師の思想を宿した“お守り”のような存在として発展してきたのだと思います。

小林さんにとって、和傘の「美」とは何でしょうか?

骨の数、その内側に折り込まれる和紙がつくるほぼ真円の形など、機能美を含んだ佇まいです。特に、骨をいかに細く美しく作るかに特化した技法が生み出す、和傘ならではの空気感。それが美しさだと感じています。

これまで製作されたなかで、特に印象深い1本はありますか。

伝統芸能に使用する舞踊傘のサンプルの傘ですね。歌舞伎では、3階席からも役者の顔が見えないといけないため、通常より傾斜が緩い和傘を使用します。また、舞台上で勢いよく開いた時に破れないよう、「間殺し(まごろし)」と呼ばれる特殊な紙の張り方をしなければなりません。この技法が、非常に難しかったです。染め紙も含め、すべてが一点ものの製作でした。

 「間殺し」とは、どのような技法なのでしょうか?

紙は水分を含むと縮むため、通常の張り方では、開いた時に破れる恐れがあります。間殺しは、紙をあえてたるませた状態で張り、力が逃げる方向をつくる技法です。勢いよく開いても破れない傘に仕上がる一方で、ねじれずに仕上げるのが難しい技法です。

そもそも、舞踊傘を製作することになったきっかけは?

歌舞伎役者さんの襲名の際、襲名披露公演で使用する舞踊傘を作る職人さんが引退して、傘を製作できる人がいなくなってしまったんです。技術も継承されていなかったため、歌舞伎の小道具を担当する小道具屋さんと相談しながら、「間殺し」という特殊技巧の研究をしました。以前製作されていた方のビデオが残っていたので、それを見ながら文献から仮説を立て、試行錯誤を重ねましたね。大変な仕事でしたが、伝統を次世代につなぎたいなら、ここまで突き詰めるべきなのだろうとも思いました。

和傘づくり以外の活動についても教えてください。

徳島・美馬市の地域おこし協力隊として、和傘指導や資料作成、和傘体験、後継者育成、資料展、地域学習用書籍『和傘ってどんなもの?美馬の和傘篇』の執筆などを行いました。任期後は長野県喬木村の地域おこし協力隊として、阿島傘の指導や資料作成、日本一の大傘(直径6m)の復元、資料展、どんど焼きの調査、『和傘ってどんなもの?阿島の和傘篇』書籍制作などにも関わりました。また、各地でのライトアップや和傘デザイン展企画、資料展開催なども、傘屋になった当初からずっと続けています。ほかにも、ライトアップやデザイン展、資料展など、和傘を知ってもらうための活動を継続しています。知られなければ、存在しないのと同じだと思うからです。倉敷に住んでいた頃は、休みの日に和傘を持って街に出て、道行く人に「持ってみますか?」と声をかけるようなゲリラパフォーマンスもしていました。

地域おこし協力隊として執筆された資料書籍には、道具の図面なども掲載されているとか。

作り方とともに、道具の図面もすべて載せるようにしています。道具が作れない人でも、図面があれば依頼して作ることができます。将来職人を目指す人が、諦めなくていい環境を整えることが、今の職人の役割だと思っています。

和傘文化を100年後に残すために、今すべきことは何でしょうか。

和傘には教科書がなく、昭和30年代以降のまとまった資料はほとんど残っていません。そのため、まずは資料を収集し、保存・保管することが最優先事項だと考えています。僕が和傘を製作し始めた頃は「30年遅い」と言われましたが、今では「50年遅い」と言われます。未来の職人が「100年遅い」と 言われないよう、その50年を僕の手で埋めておきたい。伝統を次世代につなぐためにも、証拠となる資料を残す責任があると感じています。

これから挑戦したい新しい分野やプロジェクトはありますか?

喬木村での任期を終えた現在は、地元・津山市へ戻り、「工房和傘屋」の再始動に向けて準備を進めています。並行して、和傘の資料館をつくるプロジェクトも動き出しました。全国各地の和傘の歴史を調べ上げ、誰が訪れても開かれた形で知識に触れられる場所にしたいと考えています。和傘は、特定の誰かが独占するための文化ではありません。次の世代が迷わず学び、継承できるように……。そんな思いを込めて、情報を整理し、未来へ渡す準備を進めています。

PROFILE

和傘職人 小林旅人 Tabito Kobayashi

岡山県津山市出身。鳥取県米子市の和傘職人・坂田弘に出会い、 和傘に興味を持つ。坂田の急逝後、和傘製作を始める。傘骨製作 から傘張り、仕上げまでほぼすべての和傘製作の工程を一人で行 う。古い文献や和傘関連の物の収集・研究も行っており、江戸期 の傘の復活や、無くなった技術の復活も行っている。岡山県内の 製作の和傘を探し出し、無くなった「岡山傘」「倉敷傘」「作州傘」 の復活と資料作成を行っている。

Edit:RYOTA KOUJIRO Text:SUI TOYA