和傘は、時代ごとに表情を変えながら人々の生活に寄り添ってきた、日本ならではの道具です。その佇まいは、開くたびに空間の表情を変え、静かに存在感を放ちます。本企画では、岐阜、京都、岡山で和傘と向き合う3人の職人に注目し、彼らが紡ぐ繊細な手仕事の美学と、伝統を現代に息づかせる挑戦の軌跡をたどります。

受け継ぎ、ひらく風景 ── 河合幹子が見つめる「和傘のある暮らし」
長良川の流れとともに育まれてきた岐阜の和傘文化。幼い頃から和傘に親しみ、確かな意志をもってその文化を受け継ぐのが、和傘職人の河合幹子だ。彼女が手がける和傘は、閉じた時の佇まいや手触りまで丁寧に目配りされ、日常にそっと寄り添う美しさを放つ。地場産業としての再興、後継者育成の挑戦、そして屋号「仐日和(かさびより)」に込めた想い。伝統を未来へとつなぐために歩み続ける、その静かな熱に耳を澄ませてみたい。
INTERVIEW
河合さんは、老舗の和傘問屋「坂井田永吉店」 の家系に生まれ、幼い頃から和傘に触れられていたそうですね。当時は和傘に対して、どんな印象を抱いていましたか?
小学生の頃まで、毎週土曜日は母の実家の和傘屋に通っていました。なので、当時の私にとって和傘は 特別なものではなく、日常の光景でしたね。実家が喫茶店だったり、農業をしていたりするのと同じように、なりわいとして商売をしているという感覚でした。夏休みや冬休みになると、毎日お店に行って、祖母が作業しているすぐ横で、和紙の端切れにお絵かきをしたり、宿題をしたりしながら、その手つきを見ていましたね。
おばあさまの他にも、多くの職人さんがいらっしゃったそうですね。
お店に毎日出社している職人さんだけで、3、4人はいらっしゃいました。当時は完全な分業制で、さらに外注の職人さんがたくさんいたんです。和傘の工程は細かく分かれているので、それぞれ専門の職人さんがいて。関わっている方の数は、子供だった私には到底数えきれないほどでした。
社会人になり、一度は別の仕事に就かれたそうですが、和傘の世界に入ったきっかけは何だったのでしょう?
最初は、広告代理店で折り込みチラシの制作を担当していました。ただ、印刷前の最終作業は毎週のように夜中の2時、3時まで続くこともあり、「この働き方は長く続けられない」と感じるようになって ……。そこで岐阜に戻り、簿記の資格を生かして税理士事務所で会計の仕事に就きました。そんな27歳の頃、和傘屋を営む伯父から「人手が足りないから手伝ってくれないか」と声をかけられ、伯父の会社に入ったことが、和傘の世界に本格的に踏み入れるきっかけになりました。
初めてご自身の手で和傘を完成させた時、どんな気持ちでしたか?
最初から最後まで、ほぼ1人で1本を仕上げた時は「ああ、本当にこの道に入ったんだ」と実感が湧き、胸が熱くなりました。それまでは補助的な作業が中心で、あくまでお手伝いという感覚でしたから。この1本を完成させたことで「これから自分も作り続けていく」という、職人としての始まりを静かに感じました。
もともとは分業制だったところを、ご自身で一通り作れるようになろうと思ったのはなぜですか?
伯父の会社に入った時には、すでに分業制の一部の工程を担っていた職人さんが抜けてしまっていたんです。例えば、この作業を担当されていた方は病気でお休み中とか、あの方は高齢でいつまでできるかわからない、といった状況で。このままでは、ゆくゆく和傘を完成まで持っていくことが難しくなる、という危機感がありました。だからこそ、実際に自分で全工程を手がけるかどうかは別にして、まずは一通り覚えておかなければならない、という思いがあったんです。
和傘づくりの工程を簡単にご紹介いただけますか。
和傘づくりは、まず材料の仕入れから始まります。傘の骨や、開閉を司る「繰り込み」といった部品は、それぞれ専門の職人さんが手がけるもの。私たち和傘屋は、その部品を受け取り、組み立てるところから仕事がスタートします。閉じた時に美しいシルエットになるよう、傘骨にカーブをつける「ためかけ」を行い、糸で繰り込みと傘骨をつないでいきます。続いて、何段階かに分けて和紙を張っていきます。張りが終ったら、和傘をきれいに閉じるための折り目をつける「たたみ込み」を施し、雨傘の場合は油を染み込ませて天日干しをします。日傘は油を引かず、そのまま仕上げの工程へ。骨の上に塗装を重ね、最後に内側の骨に補強と装飾を兼ねた「糸かがり」を施して完成です。
職人として働き始めた当初、最も苦労されたのはどの工程でしたか?
一部の工程に苦労したというよりは 、記憶との 「ギャップ」に戸惑いましたね。子供の頃は、職人さんの手つきがあまりにも素早くて、簡単そうに見えていたんです。だから「そんなに難しいものじゃないだろう」と思っていたのですが、いざ自分でやってみるとスムーズにいかない。特に、当時の職人さんは分業制で一つの作業ばかりされていたので、その手つきが尋常でなく速いんです。その記憶の職人さんのスピードに近づけるまでが大変でした。
現在、最も気を引き締めて作業される工程はどこでしょうか?
和紙を張る前の準備段階です。骨を等間隔に広げ、まっすぐに整えるなど、土台を準備する作業です ね。基礎がしっかりしていないと、その後どんなに頑張っても傘の形が崩れてしまいます。また、仕上げの塗装も気を張ります。岐阜では、和傘を「開けば花、閉じれば竹」と表しますが、塗装は閉じた時の姿に直結しますから、はみ出したり失敗したりすると、それまでのすべての作業が台無しになってしまうんです。だからこそ、気を引き締めて行います。
理想とする、和傘を「閉じた時の姿」とはどのようなものでしょう?
1本の竹を思わせる、丸みを帯びつつも凛とした佇まいです。うまく仕上がらないと、閉じた時にふわっと広がってしまうのですが、きれいに仕上がると、シュッと締まった感じになります。そして、閉じた時の手触りが丸く仕上がること。手にとって回した時に、つるっとした手触りになることを心がけています。和傘は閉じている時間の方が長いため、和傘ブランド「仐日和」では、閉じている姿の美しさを最も大事にしています。
素材選びで特に重視されていることはありますか?
和紙は、地元の美濃和紙はもちろん、さまざまな産地から仕入れています。美濃和紙は素晴らしい品質ですが、色柄物が少ないんです。そのため、色柄物は別の産地から、薄い和紙はまた別の産地から、という風に使い分けています。選ぶ際のこだわりは、何よりも厚みですね。厚すぎると傘を閉じた時にゴワついてしまいますし、薄すぎると今度は耐久性に問題が出ます。厚すぎず、薄すぎず、丈夫な和紙というのが大前提です。
岐阜の和傘ならではの特徴とは何でしょう?
日傘も蛇の目傘も、細いシルエットが岐阜和傘の特徴です。風が強く雪の重みがかかる地域では、骨を太くして丈夫にする必要がありますが、岐阜市はそこまで豪雪地帯ではないので、華奢な蛇の目傘でも問題なかったのだと思います。また、「二重張(にじゅうばり)」の日傘のように、凝った作りのものが多いのも岐阜和傘の特徴です。これは、和紙を二枚重ねて張ることで、光に透かした時に色が重なって見えるというものです。
糸のかがり方にも地域差があるのでしょうか?
地域によって異なりますね。岐阜はシンプルな格子模様が多いのですが、3色、4色と色を使い分けて、非常に豪華に仕上げられる地域もあります。糸かがりは、地域によって特性が顕著に出る部分だと思います。
岐阜で和傘文化が広まっていった経緯について、教えていただけますか。
まず前提として、長良川という大きな川が地域の中心にあります。長良川の川沿いには美濃市があり、 そこで作られる美濃和紙が古くから有名です。また、周辺には良質な竹や木材が豊富にあり、その加工技術も発達していました。こうした素材が長良川を下って岐阜市に運ばれ、港町で水揚げされて市内に広がっていったことで、和傘をはじめ、提灯や水うちわなど、竹と和紙を使った工芸が一気に盛んになった背景があります。さらに江戸時代には、藩主が武士の内職として和傘づくりを奨励したことも追い風となり、岐阜市で和傘文化が大きく根づいていきました。
そんな岐阜で立ち上げたブランド「仐日和」の屋号には、どのような想いが込められていますか?
個人事業を始める際、屋号をどうしようかと悩んでいたところ、先輩がふと「仐日和なんてどう?」と提案してくれたんです。「日和」という響きが心地よく、「毎日が傘日和だったらいいよね」と話が盛り上がり、そのまま屋号に決めました。「仐」は「傘」の略字で、和傘屋では昔から使われてきたもの。通常の 「傘」より軽やかな印象があり、ブランド名にも合うと感じました。和傘はどうしても雨傘のイメージが強いですが、私たちは日傘づくりにも力を入れています。晴れの日も雨の日も、毎日が「仐日和」であってほしい、という想いを込めています。
「仐日和」の和傘は、洋装にも合うモダンなデザインが特徴的ですが、伝統と新しさのバランスをどのように考えていますか?
私が作る和傘を「新しい」と言っていただくことがあるのですが、実はそうではないんです。昭和の全盛期は、岐阜市に和傘屋がひしめき合い、技とデザインを激しく競い合っていました。その頃の和傘は、今よりももっと新しくて、技術の高いものが作られていたんです。閉じた時に鶴や花の絵が描かれているなど、今ではどうやって作ったのか想像もできないような傘もありました。私は、むしろこの全盛期に少しでも追いつきたいという気持ちで和傘を作っています。ですから、「伝統を守る」というよりも、皆さんがまだ知られていない、昭和の和傘のモダンさ、おしゃれさを懐古している、という感覚に近いですね。先人たちの技術に近づきたい、という思いです。
桜型や男性向けなど独自の意匠も、昭和の和傘をアレンジしたものでしょうか?
桜の和傘は、昭和の時代に花の形をした傘があったのを知っていて、いつか作ってみたいと思っていました。ある時、東海圏のテレビ局の方から「『メリー・ポピンズ』という映画の主演女優さんに和傘をプレゼントしたいので、オリジナルで1本作ってほしい」と発注をいただき、提供された映画資料に桜のモチーフが多かったこともあって、以前からの構想を形にするきっかけになりました。男性向けデザインについては、「仐日和」立ち上げ当初から、性別や年齢、服装を選ばないラインナップにしたいという思いがありました。実は私も意外だったのですが、店頭ではもともと男性のお客様のほうが購入されることが多いそうなんです。ご自身で使われる方はもちろん、撮影用の小道具として求められるケースも多く、シックな意匠や落ち着いた色味の和傘が自然と受け入れられたのだと感じています。
ご自身にとって、「美しい和傘」とはどんな傘ですか?
私が目標としているのは「姿勢のいい傘」です。きれいに仕上がると、背筋がピンと伸びたような、まっすぐで迷いのない佇まいになります。そんな風に、閉じた時の姿勢が凛とした、美しい和傘を目指しています。
和傘づくりを通して、ご自身の中で変化した価値観はありますか?
和傘の世界に入ってまず痛感したのは、仕事として選ぶには、お給料があまりに少ないという現実でした。このままでは持続可能ではなく、どうしても補助金や寄付金に頼ってしまう――そんな危機感が強くあったんです。生活を削ってまで続けるという状況では、生活を削れる人しか和傘づくりに携われません。だからこそ独立する時は、「和傘を作ることできちんと生活できる状態をつくる」「商売として成立させる」という強い覚悟を持ちました。私の野望は、和傘を「伝統工芸」として守るだけでなく、昭和のようにもう一度岐阜の「地場産業」として根づかせること。そのためにも「仐日和」としてまず従業員にしっかりとお給料を支払うこと、そして私自身も傘づくりでちゃんと稼いでいくことを大前提に経営しています。
次世代に和傘を伝えていくために、今どんな活動や工夫をされていますか?
骨と部品の職人さんについては、それぞれ1人ずつ、3年間の研修を経て育成することができました。骨の職人さんはすでに独立し、部品の職人さんも研修後、その道で働き始めています。もちろん、さらにその次の世代が必要なので安心しきることはできませんが、誰もいないという状況はひとまず避けられました。そのため今は、傘そのものを作る職人の育成に力を移しています。和傘の学校・塾を開き、実際に作れる人を増やしていく取り組みにシフトしているところです。
「仐日和」が 掲げている、和傘を「日常の道具」として広めたいというお考えについて、詳しくお聞かせください。
和傘は「扱いが大変」「重たい」というイメージを持たれがちで、なかなか使ってみようという気にならない方が多いと思います。でも、実はそれほどハードルの高いものではないんです。日傘はお手入れいらずですし、雨傘も、使ったら「陰干し」をするだけなんですよ。私としては、例えばアナログレコードを聞くとか、わざわざコーヒー豆をミルで挽いてドリップするといった、ほんの少しの手間をかける「嗜好品」の ような感覚で使っていただきたいと思っています。
ありがとうございます。最後に、この記事を読んで和傘が気になった方へメッセージをお願いします。
和傘は、外側からの色や見え方と、内 側からの景色が全く違います。和傘を差す人だけの特権というか、差す人しか見えない色合い、景色、そして音があります。ぜひ一度、ご自身の手に取って広げてみていただきたいです。きっと、和傘が持つ魅力に気づいていただけるはずです。

PROFILE
和傘職人
河合幹子 Mikiko Kawai
1987年、岐阜県生まれ。母方の実家は岐阜市加納地区の老舗和傘問屋「坂井田永吉本店」。和傘が日常に溶け込んだ幼少期を送る。2015年頃、伯父の阪井田永治氏に「和傘作りを手伝ってみないか」と声をかけられたことがきっかけで和傘の道へ進む。2016年に自身のブランド「仐日和(かさびより)」を立ち上げた。
Edit:RYOTA KOUJIRO Text:SUI TOYA
