BEYOND WORDS 和傘に映る時の重なり

COLUMN

和傘は、時代ごとに表情を変えながら人々の生活に寄り添ってきた、日本ならではの道具です。その佇まいは、開くたびに空間の表情を変え、静かに存在感を放ちます。本企画では、岐阜、京都、岡山で和傘と向き合う3人の職人に注目し、彼らが紡ぐ繊細な手仕事の美学と、伝統を現代に息づかせる挑戦の軌跡をたどります。

京都水族館企画展示「くらげと傘と風鈴と」 伝統技法と繊細な墨彩画を用い、水中を漂うクラゲの美しさを和傘の中に表現。 ※本年の展示は2025/9/30で終了しております。

INTERVIEW

伝統は革新の連続 ── 西堀耕太郎がつなぐ京和傘の未来

千年の都・京都で、静かに佇む1本の和傘。その内には、100年を超える職人の手仕事と、次の時代を切り開く意志が宿っている。老舗「日吉屋」五代目・西堀耕太郎は、衰退の危機にあった京和傘を、照明や空間デザインへと進化させ、伝統工芸の新たな可能性を示してきた。彼の価値観を形づくったのは、故郷・和歌山の地で異文化に触れ、海外で日本を見つめ直した経験だ。「伝統とは守るものではなく、革新の積み重ねの上に息づくもの」。そう語る西堀の言葉には、時代の変化に挑み続けてきた職人としての矜持がにじむ。和傘という原点から照明、そして次世代の職人育成へ。その挑戦の軌跡に、光を当ててみたい。

ご出身は和歌山県新宮市とのことですが、和傘の世界に入るまでに、西堀さんの価値観を形作ったものは何でしょうか?

私が育った新宮市は、紀伊半島の南端にある地方都市です。新宮市は合気道発祥の地と言われており、私も中学から合気道を始めました。道場には外国人の門下生も多く、半数近くが外国人という非常に特殊な環境でした。さらに、実家が英語塾を経営しており、外国人の方がホームステイに来るなど、子供の頃から外国の文化に接する機会が多かったんです。

外国の方々との交流は、進路を考えるうえでどんな影響を与えましたか?

私の学生時代は、ちょうどバブルが終わるか終わらないかという時期で、「受験戦争」が全盛でした。良い大学に入り、良い会社に入ることが幸せだ――そんな価値観が当たり前のように語られていたんです。ただ、朝晩道場に通うなかで、経済的な成功とはまったく違う価値観で生きている外国人の方々と出会いました。なかには、大学教授やミュージシャン、元アメリカ大統領のボディーガードといった肩書きを持つ人もいて、皆それぞれの信念のもとに武道の修行に打ち込んでいたんです。学校で教わる「正解」とは真逆の生き方をしている彼らと交流を重ねるうちに、「本当に正しい生き方とはなんだろう」と考えるようにな りました。そうした経験がきっかけで、自然と海外への関心が高まっていったんです。高校卒業後は、思い切ってカナダへワーキングホリデーに行くことを決めました。1年間の滞在を終えて一度帰国したものの、どうしてももう一度あの場所で学びたくなって、再びカナダへ。通算で2年ほど滞在しましたね。

海外に出て、日本への意識はどのように変わりましたか?

日本を離れてみて初めて、「日本文化」や自分が「日本人であること」を強烈に意識するようになりました。若い私には非常に衝撃的な体験で、これが後に和傘屋を継ぐ土台になったことは間違いありません。

帰国後は、市役所に就職されたそうですね。

ワーホリ中に出会ったクロアチア人の友人と「クロアチアで寿司屋をやろう」と計画していて、その資金を貯めるために地元の新宮市役所に就職しました。当時の新宮市長が姉妹都市事業の活性化に力を入れていて、英語を話せる人を求めていたんです。私は経済観光課に配属され、通訳や翻訳、海外からの来賓対応などを任されました。そうやって市役所で働きながら資金を貯め ていた時に出会ったのが、現在の妻です。彼女の実家が、100年以上続く京和傘の老舗「日吉屋」でした。

初めて和傘を見た時の印象は?

妻の実家を訪ねた際、初めて和傘を目にしました。カナダでの経験から、日本の文化や歴史に興味を持っていたこともあり、「渋くてかっこいい」と素直に思いましたね。店先に置かれていた雑誌の特集記事も印象的でした。そこには、英国女王エリザベス2世の来日時のお茶席の写真が掲載されていて、使われている赤い野点傘が、日吉屋の三代目が手がけたものだと知りました。国賓を迎える場所で使われるものを作っていたという事実に、「これはすごい」と感心したんです。ただ、その頃の日吉屋は深刻な状況でした。四代目である妻の母は「もう売れないから辞める」と言っていて、年間の売上は160万円ほど。妻の姉妹も継ぐつもりは全くなく、廃業寸前でした。

危機的な状況を目の当たりにして、すぐに継ぐ決意をされたのでしょうか?

当時はまだ公務員でしたので、すぐに継ぐという発想はありませんでした。詳しく聞くと、京都で和傘屋はすでに2軒しか残っておらず、私が継ぐ頃には日吉屋が最後の1軒に。つまり、日吉屋が廃業するというのは、京和傘の文化が途絶えることと同義でした。そういった背景もあり、どうにか続けられないかと考えるようになっていったんです。

最初にどんな行動を?

ちょうどその頃、市の観光宣伝のためのホームペー ジ制作を担当していました。Windows95が出たばかりで、地方でも低コストで発信できる新しいツールになると感じていたんです。その経験を生かして、日吉屋のホームページも作ってみようということになり、大学生だった弟の協力を得て完成したのが1997年。当時はショッピングカートやクレジットカード決済が難しかったので、写真と値段を載せ、「欲しい人はメールを」というシンプルな通販方式でした。すると、東京の舞踏関係の方からすぐに注文が入り、そこから次々と注文が舞い込みました。インターネット黎明期の波に乗り、日吉屋の売上は急速に伸びていったんです。

ご自身が和傘づくりに本格的にかかわり始めたのはいつ頃だったのでしょうか?

インターネットで売上が伸び始めた頃、妻の実家に行った際に、作り方を教えてもらう機会がありました。道具を借りて作業をビデオに撮り、見よう見まねで挑戦する。週末は車で京都へ向かい、土日に集中して習っては月曜の朝に戻る。そんな生活を続けました。

和傘づくりを始めた頃、最も苦戦した工程はどこでしょうか?

傘は骨の数だけ工程があると言われますが、なかでも難しいのが、骨に和紙を貼る「胴張り」です。天然の竹骨はまっすぐではありません。そこに真っすぐな紙を貼るため、必ずズレが生じます。霧吹きで和紙を湿らせて伸縮させ、補正しながら一発で張り上げる。糊がついた骨の上で紙をずらせば跡が残り、高価な手漉き和紙が台無しになります。直径3メートルの大傘なら、わずか5ミリの誤差が一周で数センチに広がる。見た目は簡単そうでも、「一度で決める集中力と技術」が求められる工程なんです。

やり直しのきかない、技術が試される工程なんですね。公務員を辞め、日吉屋を継いだのは29歳の時だったとか。

2003年、29歳で退職し専業となりました。当時の 売上は1千万円ほど。ただ、和傘は着物文化とともにあるため、和装人口の減少とともに需要も減っていくのは明らかでした。歌舞伎や茶道だけに頼っていては先がない。常に「次の一手」を考えていました。

それが、和傘の技術を生かした照明という「革新」に繋がったのですね。

はい。2004年に、和傘の構造と和紙の技術を応用した、開閉式の照明器具の開発を始めました。そして2006年、「伝統は革新の連続」をテーマに初の照明シリーズ「古都里 -KOTORI-」を発表。翌年、グッドデザイン賞を受賞したことを機に、インテリア業界へ進出しました。

現在、企業理念に掲げている「伝統は革新の連続」に込められた想いとは?

伝統とは、革新の積み重ねのうえに成り立つものだと思っています。傘の歴史を紐解くと、奈良時代には「魔除け」だったものが、開閉や防水といった技術革新を経て、江戸時代には「雨具」として広まりました。過去の革新が、今の伝統を形づくっているんです。私たちが2006年に生み出した照明も、数十年後には「伝統」と呼ばれるかもしれません。そうなれば、また次の革新が必要になります。社員に伝えているのは、和傘という原点を大切にしつつ、新しい挑戦を恐れないこと。お客様のニーズに合わないものを作り続けても継続はできません。伝統工芸品も本来は「商品」であり、時代に合わせたイノベーションこそが、未来へ伝統をつなぐ道だと信じています。

和傘の技術を照明へと進化させた西堀さんですが、京和傘の造りや、その根底にある美意識について教えてください。

京和傘の特徴は、茶道家元の裏千家様からオーダーいただいた「本式野点傘」に最もよく表れています。これはまさしく、侘び茶の精神に合う色合いやデザインを追求したものです。例えば、一般的な和傘は大きくなればなるほど、強度を保つために骨の数を増やしますが、最も大きな野点傘は、あえて骨数を減らしています。過剰な装飾を避け、静かな美しさを追求する――まさに侘び寂びの思想です。また、傘を開いた内側に見える「糸かがり」も象徴的。もともと和傘は仏具のひとつとして中国から伝わったと言われておりましたが、華美な装飾の中国由来の傘に対し、京和傘は簡素で控えめです。茶室の空気に溶け込むよう、代々、家元のご意向を反映しながら改良を重ねてきた、その造形美こそが京和傘の真髄です。

西堀さんご自身が感じる、和傘ならではの魅力とは何でしょうか?

和傘は、防水効果を持たせるため、植物性油を塗布します。「油引き」といって、日吉屋では亜麻仁油を使用していますね。油を引いた後は、天日にて干し、乾燥させます。この油紙が雨に濡れた時に発する雨音、パラパラパラと水を弾く音が、なんとも風情があって良いんです。洋傘とはまた異なる、独特の情緒がありますね。

その「天日干し」から、照明のアイデアが生まれたそうですね。

日吉屋では、向かいにある宝鏡寺の境内をお借りして、毎日傘を天日干ししています。和傘には、顔映りを良くするために赤などの明るい色が多く使われます。暗い雨の日でも光を反射して顔色が明るく見えるように工夫されているんですね。ある朝、干した傘を透かして確認していると、太陽の光を通した時の美しさにハッとしました。「これを電球の光に変えてもきれいなのでは?」と思い立ち、照明の開発を始めたんです。

そこから試行錯誤が始まったと思いますが、最初のデザインはどのようなものだったのでしょうか?

最初のデザインは、まさに天日干しの光景から着想を得たものでした。傘の形をしたシェードに電球をつけただけの、シンプルな構造です。展示会に出展すると、来場者からは「面白いね」と言ってもらえましたが、残念ながら注文にはつながりませんでした。そこで照明デザイナーの方を紹介してもらったのですが、彼が提案してきたのは筒型のデザイン。私たち傘屋にとっては「これは傘じゃない」と思える形でした。ところが、展示会で吊るしてみると、インテリアデザイナーなど専門家の評価は、この筒型のほうが圧倒的に高かったんです。この時、痛感したのは、プロダクトアウト(作り手の発想)ではなく、マーケットイン(市場の視点)の重要性です。自分たちの思い込みを超え、外の視点を受け入れたこの経験こそが、後の成功につながる最初の芽だったと思います。

筒型に改良された後も、「開閉できる構造」を維持するのに苦労されたのでは?

「開く」「閉じる」という構造を残したまま、開いた状態で美しく保つのが本当に難しかったです。鉄のリングなど、いろいろ試しましたが、組み立てが複雑になったり、折りたためるはずの傘が結局大きなパッケージになってしまったりと、うまくいかない。最終的には、部品点数をできる限り減らし、誰でも簡単に組み立てられ、丸いフォルムを維持できる構造を追求しました。固定具がないのに形を保てるのは、中央の丸い板状のパーツが水平に開く竹骨を押さえて固定する仕組みになっているからです。この画期的な構造で特許を取得しましたが、完成までには長い試行錯誤がありました。最終的にたどり着いたこのシンプルな構造こそ、「用の美」を体現していると感じています。

これまで、数々のコラボレーションを手がけてこられたなかで、特に印象に残っているプロジェクトを教えてください。

どれも思い出深いですが、特に難易度が高かったのは、桂由美先生の「和傘ドレス」と「和傘のベール」ですね。モデルさんが実際に着てランウェイを歩くというもので、人の体が傘のシャフトになる構造を考えなければいけませんでした。しかも、先生からのご要望は「すべて竹や木などの自然素材で、伝統技法だけを使ってほしい」というもの。ファッションデザイナーのラフ画には、物理的に実現が難しい線が描かれていることもあります。それをどうやって形にするかが、まさに職人の腕の見せどころでした。制作はなんとか間に合いましたが、パリコレでのショー直前、モデルさんが実際に着た時に竹骨が折れてしまうというアクシデントが発生して……。急いでホテルまで材料を取りに走り、バックステージで他のプロの方々に混じって修繕しました。無事にショーが終わり、チーム全員で拍手を交わした瞬間の達成感は、今でも忘れられません。

2012年に設立され、その後「日吉屋クラフトラボ」となった事業についても教えてください。

きっかけは、私たちがデザイン開発や海外販売で成果を出したことを知った京都市役所の方々から、「どうしたら日吉屋のように海外展開できるのか教えてほしい」と相談を受けたことでした。私がお伝えしたのは、まず次のターゲット国を明確にし、その国の文化や専門家を巻き込んで、一緒に商品を作ること。いわば「グローバルローカライズ」です。その国の人の価値観や感性に合うものを作ることが大切だと考えています。そうした考えをもとに、京和傘以外の伝統工芸品にも海外展開の支援を広げるため、「TCI研究所」(後に「日吉屋クラフトラボ」に改名)という会社を立ち上げました。

具体的に、どのような形で支援をされているのでしょうか?

これまで、伝統工芸品を海外に輸出する際、デザイナーの感性だけに頼って失敗してしまう例をたくさん見てきました。そのため私たちは、デザイナーの前にバイヤー、つまり海外の販売責任者や代理店の社長などの視点を取り入れるようにしています。彼らを日本に招き、海外の商流に合った価格設定や売り方を学びながら、職人さんと協力して新しい商品を生み出していくんです。例えば、ある漆器をフランスのバイヤーに見せたところ、「漆の良さは分からない」と言われた一方で、「木をこんなに薄く削れる技術は素晴らしい」と評価されたことがありました。その視点を生かして商品を作り直した結果、欧州の有名ブランド等にも採用されるまでになったんです。現在では、のべ700社以上の中小企業・伝統工芸事業者等を支援し、「新商品の企画・開発」から「バイヤー向け商談会」、「国内外見本市への出展」まで、一貫してサポートしています。

「日吉屋クラフトラボ」が目指す、最終的なゴールとは?

「どうしてそのノウハウを秘密にしないの?」とよく聞かれます。でも、私は「日本の伝統文化って本当にかっこいいんだ」ということを、もっと多くの人に知ってほしいんです。自分のところだけがうまくいけばいいのではなく、日本全体として伝統文化に誇りを持つ人を増やしたい。職人さんがみんなで新しい市場を開き、次の世代の仕事をつくっていく。そういう大きな流れをつくることが、私たちの役割だと思っています。日吉屋が和傘を作り続けられるのも、照明のように新しい形に進化させてきたからです。その発展が職人の育成につながり、結果として伝統を守ることにつながる。そして、こうした革新が次の「伝統」になっていく。そんな循環を、私たちだけでなく、業界全体で育てていけたらと思っています。

PROFILE

伝統工芸「京和傘」日吉屋 五代目当主

西堀耕太郎 Kotaro Nishibori

唯一の京和傘製造元「日吉屋」五代目。和歌山県新宮市出身。カナダ留学後市役所で通訳をするも、結婚後妻の実家「日吉屋」で京和傘の魅力に目覚め、脱・公務員。職人の道へ。2004年五代目就任。「伝統は革新の連続である」を企業理念に掲げ、伝統的和傘の継承のみならず、和傘の技術、構造を活かした新商品を積極的に開拓中。グローバル・老舗ベンチャー企業を目指す。

Edit:RYOTA KOUJIRO Text:SUI TOYA